創業物語
「挑み続ける」
この揺るぎない姿勢こそ、
充実した人生を支え続けるための支柱。
第1章 創業から企業成長までのあゆみ
01. 遊んでばっかりで
ちっとも勉強しなかった。
02. 営業の仕事が面白くて、
飛ぶ鳥を落とす勢い。
03. 組織の中で自分らしさを
失いたくなかった。
04. ゲッツ前田メディカル
からの改名。
05. かつて反発した
組織の硬直化という壁
06. どこまで大きくなれるのか、
夢はふくらむ
01. 遊んでばかりでちっとも勉強しなかった。
私は昭和30年2月、上に姉、下に弟の3人兄弟の長男として福岡市東区に生まれました。幼稚園まではワンパク小僧だったのですが、小学校に入る頃に小児喘息を罹って性格的に変わったようです。
スポーツは好きだったんですが、病気のため運動会はいつも応援組でした。喘息は中学2年生くらいまで続き、念願の野球部に入ったものの親にやめさせられてしまいました。
成績はとりり立てて良くも悪くもなかったけど、勉強はしませんでしたね。だから高校受験では希望の高校に落ちてしまい、入ったのはいわゆる進学校ではありませんでした。入学時こそ特別奨学生コースで成績もトップクラスでしたが、そこでも勉強しないからみるみる成績は下がる一方。3年生になっても遊んでばかりいたから、希望する大学にはとても受かりそうにない。自分の成績で受かるような大学に入っても仕方ないし、漠然と自営で商売をやりたいという思いもあり、資格を取ろうということで測量の専門学校に進みました。
02. 営業の仕事が面白くて、飛ぶ鳥を落とす勢い。
専門学校を卒業して測量の会社に入ったものの、当時はオイルショックのさなかで出社しても仕事がなく、仕方ないので仕事の代わりにソフトボールをやっていました。その頃私もまだ若かったので、こんなことばかりしていても面白くないと思い半年でその会社を辞め、今度は営業の仕事を探しました。
営業の仕事を探したと言っても、別に営業がしたくてたまらなかったというわけではなく、経験もない若い自分が手っ取り早く職に就くのは営業の仕事しかなかったのです。幸い医療機器会社が営業職を募集しており、私はその会社に入社しました。営業職で入ったにも関わらず、そこで最初に担当したのが倉庫の商品管理の仕事。それでも仕事が合っていたのですかね、社内での伝票の流れを変えて仕事の効率化を図ったりするうちに、前任者が1日でやっていた仕事を半日で終わらせてしまうようになりました。仕事が半日で終わってしまうと、暇を持て余すようになります。息抜きに外に出たいと考え、上司に営業をさせて欲しいと頼み込みました。
その当時、勤めている会社には個人病院を回っている営業がいなかったため、それを口実に外にさぼりに出たんですよ。私としては、倉庫の管理をしっかりやっていたので、それで給料分は働いているという意識がありました。しかしですね、嘘日報を書くのも半年くらいすると飽きてくるんですよ。そこで、真剣に営業の仕事に身を入れ出してみました。すると面白いことに、先輩達の成績をすいすい抜いていき、誰にも営業のノウハウを教えてもらったわけでもなく、自分なりに飛び込み営業を続けていくうちに1年後には成績がトップになったんですよ。
そのうち営業を専任でやらないかという話になりました。そして熊本地区担当になったのですが、行ってみると担当エリアはクレームの山でした。前任者がいい加減なことをしていたんですよ。クレームの山を前に、私の営業としてのキャリアが出発しました。私が勤めたこの会社は、教育制度が優れているとかそういったものはなく、自分で努力する者はどんどん伸び、サラリーマン化する者はサラリーマン化し、努力しない者はとことん出来ないというところでした。社長は厳しい人でしたが、社員をがんじがらめにする社風ではなかったですね。この社風は私の性格に合っていました。また、私が入社したすぐ後から国立の九州大学や私立のいい大学を出た新卒者が入社しはじめました。こうした学歴のある人たちに負けたくないという気持ちも加わり、私は一生懸命に仕事に打ち込み、営業では誰にも負けないという自信を持つことが出来ました。営業専任になってからは、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたね。新製品が入ると必ず私が1号機を売ってましたし、営業力では誰にも負けないという自信もつきました。
03. 組織の中で自分らしさを失いたくなかった。
しかし、最初からトップセールスだったわけではありませんよ。どんなに動いても全然売れないこともあったし、そんな時は自分なりに売れない理由を分析して、その理由をひとつずつつぶすようにしていった。一方的に買ってくれと迫るのではなくて、まず相手の業務の苦労とか問題点を自分の提案で解決してあげる。そうするうちに信頼関係が生まれますし、もっと多くのニーズを聞き出すことも出来るようになる。そうなると黙っていても売れるようになります。同僚と飲みに行く暇もないほど忙しい毎日でしたが、何となく自分が組織の中で浮いているのが見えてきた。
会社という組織はおかしなもので、徐々に硬直化していく性質がある。営業ではダントツの成績だった私が提出する企画書が、リスクが高く前例がないということで、所長のところで止まるようになりました。失敗した場合に責任を取るのを中間管理職にある者が恐れたんでしょうね。でも、私の方は、物を売る面白みや達成感の喜びを知り、それに突き動かされて仕事をしている。そこで、所長を飛び越え、部長、時には社長に直談判して企画を通したりしました。企画を通した結果は非常に実り多いものなのですが、このやり方は組織に馴染まないものでした。今までどおり自分のペースでやっていくのか、自分を殺して組織の調和を優先するのか迷いました。
27歳の時、私は結婚しました。営業成績は相変わらず絶好調でしたが、結婚と同時にサラリーマン化し出しました。何も各部署のマネージャーと揉めてまで仕事をしなくてもいいかと思いはじめました。他部署と調整しながら仕事をして、将来は九州営業所の所長ぐらいになれればいい、などと思いながら仕事を続けていくうち、仕事が面白くなくなってきたんですよ。
結婚してから2年後くらいのことですか、その頃、最初の子供が産まれたのですが、大変な難産で一週間くらい妻に付きっきりになりました。破水し、妻と子供のどちらかを取るか、という選択をさせられての出産だった。幸い母子とも無事でしたが、難産の末に生まれてきた我が息子を見て、私は子供の中に限りない可能性を感じました。この子は将来どのようになるのだろうかと想像したりしたのと同時に、子供の可能性に比べ、サラリーマン化した自分がつくづく嫌になった。そういったことが独立のきっかけでしょうか。
04. ゲッツ前田メディカルからの改名。
独立を決意してから、どうやったらいいかを半年から1年くらいの間考えました。第一に、私は最先端の医療器械を扱いたかったのですが、最先端の器械を扱うには大学病院や総合病院など、簡単に取引出来ないところが商売相手となる。それでも、既に多く存在しているディーラーさんたちの間に参入するには、ディーラーさんたちが苦手とする最先端の器械や特殊なものを取り扱うしかない。そして、最初はどこかの会社の名前を借りて商売をはじめた方がうまく行きそうだと考えました。
その頃、透析器が落ち目になって来ていて、これからは循環器のマーケットが伸張していくと言われていました。私は循環器を扱おうと考えましたが、当時の私は主に麻酔科の先生を相手に営業をしていて、循環器の先生とはほとんど面識がない。そうは言っても独立するには循環器、それも心臓部門の器械を扱いたい。そこで、心臓部門の循環器を取扱うメーカーに、保険の外交のような商売のやり方を提案しました。
つまり、私がそのメーカーの伝票を持って製品を売り、手数料を貰うという方法です。そうした商売をしながら、大学病院や総合病院の循環器の先生と面識を持つのです。私の提案を受け入れてくれたのは、ゲッツブラザーズでした。その当時、ゲッツブラザーズのペースメーカ、PTCAカテーテル、SJMの心臓人工弁が伸び盛りでした。ゲッツブラザーズは、このうち競争の激しかったペースメーカを取扱ってよいと言いました。それも私の提案を全て呑んだ上でです。ですが、うまい話には必ずその続きがあるものです。ゲッツブラザーズは、ゲッツの名前を社名に出して欲しいという条件を出してきました。会社を興すにあたって、社名は心のようなものです。私は迷ったが、結局心を捨てて、実をとることにしました。ゲッツ前田メディカル、GMメディカルの誕生です。
ビジネスは順調にスタートし、大学病院に出入りが出来るようになり、徐々に仕入れも自社名でするようになりました。しかし、商売を拡げようと他のメーカーから商品を仕入れようとすると、今度はゲッツの名前が障害になりました。ゲッツの子会社だと見られ、敬遠されたのです。2年間、昼間は実務をし、夜に仕入先を開拓しようと努力しましたが、うまく行きませんでした。無駄な2年間でした。私は発想を変え、仕入先開拓に注いでいたエネルギーを顧客サービスに向けることにしました。顧客ニーズを聞きまくり、同業他社と差別化を図ることにしたのです。
そうした中から、医療機関への24時間サポート態勢など新しいサービスが姿を現しました。サービスがお客さんに喜ばれると、今度はお客さんの方からメーカーにGMメディカルを通してくれと言ってくれるようになります。私が2年間必死にやって出来なかった仕入れ先の開拓が、お客さんの一言で可能になったのです。他社メーカーと取引をはじめてから5、6年後、私はお世話になったゲッツブラザーズの社長さんのところに行き、社名は変えないが、中身を変えますと話しました。
GMメディカルはそのままだが、ゲッツ前田メディカルでなく、Gentleness Mankind Medical(人に優しい医療)としたのです。ボストンサイエンティフィック、ジョンソンエンドジョンソン、テルモと今の主要な循環器メーカーと取引を拡げ、メーカーの伸張に伴い、GMメディカルの業績もどんどん伸びていった。ですが、好調な業績の陰で社内に垢が溜まっていることに私は気付いていませんでした。
05. かつて反発した組織の硬直化という壁
組織の硬直化。サラリーマン時代にあれほど私が反発し、そんな会社にはしないと肝に銘じていたはずだった。しかし社内は、私の思想ではなく私が権限を委譲した人物の思想になっており、取り巻きのような人々が会社を私物化するような状況になっていたのです。
会社の13期(1997年)頃に、売上げは伸びているが収益性が悪化していることに気付きました。ですが、委譲した当人に尋ねても社長の私にはいいことしか言わない。そこで、誕生会や歓迎会を行い、直接社員から話を聞いたり、前田塾と銘打った課長だけの勉強会を開き、課長たちの本音を聞きました。社内的には課長のレベルアップと社長とのコミュニケーションを深めるためと称して行ったところ、課長たちはイエスマンと化していました。どうも当時の営業の責任者らが、自分の言った通りにするようにという指導をしていたらしく、私は1年間、前田塾でその下の課長たちから話を聞き出し続けました。そして、出した結論が情報開示です。
その頃、滅菌切れ製品の不良在庫が増え、利益を圧迫していました。私はこの情報開示と一緒に不良在庫問題も解決するため、社内へのIT導入を計画し、ITの専門家を入社させました。ボトムアップも重要ですが、戦略的にはトップダウンが大事だと私は考えています。そのためには、社長が何を考えているのかを明確に社員に示さなければなりません。中間層にいる者が、あたかも自分の意見が社長の意見であるかのような振る舞いをしたりするのを避けるためにも、社内の各種会議の議事録を社内ネットワーク上の掲示板に掲載し、全ての情報を開示しました。そして、「社内改革ビジョン」を作成することにしたのです。
この「社内改革ビジョン」を作成する過程で、私の思想と一部の中間層グループの思想の間にギャップが生じ、結果的にそのグループは会社から出ていき、同業の別会社を作りました。そのため、会社の売上げは一時的にダウンしてしまいましたが現在はリバイバルできています。
私の経営の原点はサラリーマン化したくないという思いです。しかし、現実の会社にはいろいろな人がいて、私のような人間ばかりではありません。それでも、一部の意欲的な人材のやる気を損なわず、社長職に就けるような社内人事労務制度を作りました。大手企業がリストラを行ったり、日本の労働慣行が変化している時代だから受け入れられたのかもしれませんが、職階の規準を明確に規定し、目標を設定させ、それを達成したらポイントを与え、報酬に格差が出るような制度にしたのです。平均的な社員の立場も守るが、やる気のある社員には、より高い待遇と報酬を約束する。
この制度を導入して6、7年が経ちますが、意欲的な若手がガンガン伸びてきています。そうした若手と話をすると社長になりたい人間もいる。そこで、彼らを社長にするため、分社制度を導入することにしました。例えば、内勤のIT部門で頑張っている社員がいれば、分社し社長にするのです。そうしながら、それぞれの専門性を高め、グループ化(アウトソーシング)しています。
06. どこまで大きくなれるのか、夢はふくらむ
改正薬事法が施行されるここ数年は厳しい状況に陥ると思います。特に努力していない会社にとっては、非常に厳しいものとなるでしょう。逆に努力している会社にとっては、改正薬事法も公正競争規約もむしろよいことでしょう。しかし、会社経営は難しいもので、いくら努力をしていても、実際は堅実に「ぼちぼち」商売をし、お金をため込んでいる会社の方が生き残ったりします。私のビジョンの最終着地点は、病院経営です。それも、最先端医療と予防医学の調和した、しかも企業化した病院経営をやってみたい。夢のようなことを言っていると思う人がいるかもしれないが、時代は変わりつつあります。
すぐ目の前に、次の時代の扉が開いているのです。
第2章 後継者育成と次世代継承
2003年(18期 48歳)に書いた、第1部「創業者物語」から15年。
2018年(33期 63歳)になります。
第1部のラストで記した分社制度は、残念ながら失敗に終わりました。
「社長になりたい!」という意欲を持つ者が少なく、また意欲や想いがあってもスキルが伴わないなど、分社の社長を任せられなかったのです。
しかし、芳賀さんだけは違いました。彼は夢の為に退職し、映像事業69’nersFILMの創業準備を整えて、私を訪ねてくれたのです!
69’nersFILMは今創業10年、グループ企業として活躍しています。
芳賀さんの存在が費やした時間や苦労がムダではなかったと嬉しく思わせてくれました。
失敗を乗り越えて、分社制度の想いは新しい会社創造へ。
2001年(46歳)~2010年(55歳)は、会社創造に奔走した10年でした。
分社制度と会社創造について、簡単に沿革を記しておきます。
-
2001
(46歳)2001年に医療機器流通同業者協調の(株)グループ21の創業メンバーとして出資。
(2004年に企業再建社長に就任、2011年~信用保証会長として筆頭株主に) -
2002
(47歳)2002年に感染予防事業のジーエムサニテーション(株)設立。
(2008年に(株)アユム買収、2011年に両社を合併。現、(株)アユム) -
2004
(49歳)2004年に新実さんとの再会で医療機器製造事業の(株)ユビックスを設立。 -
2005
(50歳)2005年に大分県に同業のメディカルサポートを設立(5年後に売却)。 -
2008
(53歳)2008年にフィットネス事業に参入
(2011年にFit21(株)として分社、現在9店舗運営。) -
2008
(53歳)2008年(株)グループ21絡みで佐賀県の姉川医科器械(株)を買収。
(2010年 ジーエムメディカル(株)に吸収合併)
2006年(51歳)~2015年(60歳) ジーエムメディカル(株) 21期~30期
上記沿革の犠牲か、ジーエムメディカル(株)21期(2006年)51歳~30期(2015年)60歳の期間は苦難の時期。変革の苦しみを味わいました。
21期(年商57億円)から30期(年商72億円)の低成長は、新会社への投資と後継者育成遅延で本体に負荷がかかったのだと反省しきりです…
2011年(56歳)~現在(63歳)
26期(2010年)56歳からの事業次世代継承の想いを事業発展計画標語として掲げました。
(事業発展計画書標語の推移)
事業発展計画書標語の推移(テーマ)
26期(2011年)56歳 | 挑む |
---|---|
27期(2012年)57歳 | 次世代継承 |
28期(2013年)58歳 | 次世代継承 |
29期(2014年)59歳 | 社長交代!あと2年(31期) |
30期(2015年)60歳 | 仮称21ホールディングス(株)本格始動前哨戦 |
つまらない時間と次への希望。
実は57歳から「次世代継承」を掲げた3年間が、人生で一番楽しくない期間でした。
理由は明白。『私が退いてからの会社の将来』を考えると、消極的(委譲)になり下がった結果と痛感、積極的な委譲をなぜやらなかったと後悔しております。
創業から営業責任者としてお客様獲得に奔走した15年、管理責任者として会社内部を整えた5年間、新しい会社創りに熱中した5年は…遮二無二やり遂げ成果に繋がった。
だからハードでも辛さやつまらなさは一切感じた事はありませんでした!
毎日が楽しく、会社存亡の危機に遭遇しても、よりパワフルになれる自分を知りました。
だからこそ、私が抜けた後の会社が心配で、あれこれ悩みました。
私抜きの会社を客観視すると、
「守り」は強いが「攻め」に弱い、環境変化やお客様の声を政策に反映させる力が弱い、目標を諦めずに最後までヤリ遂げる力が緩く次世代幹部社員育成の遅れを痛感しました。
「私の経営理念」はいずれ継承できなくなり、事業は衰退していく事は明白に思えました。
再編必然の医療機器業界でオンリーワン専門デーラーとして九州からの飛躍を実現して欲しく、次に託したいとの想いが膨らみました。
この痛感させられた想いを次々世代社員(今の中間管理職)に変貌して欲しく現執行役員の再編成を最後の仕事として取締役人事に挑むことを決意しました。
「未来創造・新に挑む」挑戦心と感性が高い新社長と「やり遂げる運営」と「理念の浸透」を託せる管理部長は決まりました。営業の要とM&A遂行ができる2名をアプローチ中、彼らに引き受けて貰えると、体制は磐石になります。
基本は社員を大切に育ててくれる人材でなければなりません。
新体制の役員は「会社の永続的な繁栄」を引き継いでくれると確信しています。
2018年(63歳)~
『次世代継承』から「次々世代地盤づくり」の骨格を創り上げるラストスパート期間。
やりきった時には、最高の人生だったと誇れると思います。
「酒は弱いが飲み会は断らない」
「人を信用し、裏切られたら仕方ないが、自分からは決して裏切らない」
「売られた喧嘩は必ず勝つ」(仕事ですよ!)
この3つの主義を大切にし、沢山の人々に支えられて、今まで楽しく歩めました!
そしてこれからも、人生を謳歌したいと思います!
役員・社員の皆さん、これからはあなた方が主役です。
仮称トゥエンティワンホールディングス(株)を宜しくお願いします。
私の経営理念
会社の永続的な繁栄
- 「お客様に感動を与える」
- お客様に感動を与えなければ、会社は繁栄しない
- 「社員の待遇を高める」
- 社員の待遇を高めなければ、お客様に感動を与えられない
- 「利益創造」
- 利益を創造できなければ、社員の待遇は高められない
前田雅英